訃報。中日で活躍したブランコさんが事故死。彼の栄光の人生と、日本で輝いた助っ人外国人について深堀り。もちろん彼らにまつわるお宝も深堀り。

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上野川のバス停付近で、

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本日あのトニ・ブランコ氏が、

事故死したというニュースが、

飛び込みました。

今回は、彼の死を悼み、

その栄光の足跡をまとめます。

あわせて、日本球界に欠かせない

助っ人外国人について、

彼らの成績などをまとめ深堀りします。

トニ・ブランコさんの事故について

ドミニカ共和国時間4/8(日本時間4/9)の

訪れていたナイトクラブの天井崩落事故にて、

急逝しました。

[事故概要]

現地時間4/8 午前1時。

コンサートが行われていた、

首都サントドミンゴの有名クラブ

「ジェット・セット」の屋根が突如崩落。

この事故で少なくとも98人以上が死亡し、

160人以上がけがを負いました。

死者の中には、

ブランコさん以外にも、

米大リーグ13球団でプレーした、

オクタビオ・ドテル氏(51)らも死去しました。

[彼の優しさが救った命]

この事故が起きる直前。

このとき一緒にライブを楽しんでいて、

トイレで中座して戻ろうとした、

西武やオリックスで活躍した、

エステバン・ヘルマン氏を、

とっさの判断で外に押しました。

彼の究極の機転によって、

ヘルマン氏は一命を取り留めましたが、

ブランコ氏は崩落に巻き込まれ、

亡くなりました。

まさに、惜しい人をなくしたものです。

次章では、彼の成績についてまとめます。

トニ・ブランコさんの生涯

トニ・ブランコさんは、

1980年11月10日、ドミニカ共和国生まれです。

彼の野球人生について、まとめます。

[NLB時代]

野球の世界に入ったのは、

97年MLBへの道が開ける、

MLBのボストン・レッドソックスが

ドミニカ共和国に設けていたアカデミーに入団し、

野球選手としてのキャリアを始動しました。

98年に正式にレッドソックスと契約し、

メジャーリーグの道を歩み始めました。

その後はレッズ→ナショナルズ→ロッキーズと、渡り歩きました。

最後のロッキーズ2Aで、

打率.323、23本塁打、88打点を記録。

徐々にその実力が開き始めました。

[日本球界での活躍]

彼はMLBでは、無名なマイナー選手の一人でしたが、

当時中日の一軍バッテリーチーフコーチであった、

森 繁和がその非凡な長打力はもちろん、

その性格の良さに惚れ込み、

スカウトしました。

日本球界で大活しました。

​2009年から2012年まで中日ドラゴンズでプレーし、

主に4番打者として活躍しました。

2013年には横浜DeNAベイスターズに移籍し、

同年に本塁打王と打点王の二冠を獲得しています。

​その後、オリックス・バファローズでもプレーし、

NPB通算で9シーズンにわたり活躍されました。

助っ人外国人制度について

ちなみに助っ人外国人という制度を、

あなたはご存知でしょうか?

もちろんブランコさんも、

一助っ人外国人でした。

[助っ人外国人制度について]

主にチームの戦力補強を目的として、

契約される外国籍選手のことを指します。

彼らはチームの攻撃力や投手力を強化するために、

大きな役割を果たしており、

NPBの歴史において数多くのスター選手を輩出してきました。

[実際の運用方法]

NPBでは、各球団が保有できる、

外国人選手の数に制限があります。

2023年時点では、

以下のルールが適用されています。

支配下登録枠(チームが契約できる外国人選手の数):無制限

一軍登録枠(試合に出場できる外国人選手の数):最大5人

ただし、試合で同時に出場できるのは4人まで

投手3人+野手2人など、自由に組み合わせ可能

アジア国籍選手(韓国、台湾など)に関しては、

特例措置が適用される場合もある

このルールは、外国人選手の過度な集中を防ぎ、

日本人選手の育成を促す目的があります。

– 契約の特徴
外国人選手の契約は、

日本人選手とは異なる特徴があります。

    契約期間:基本的に1年契約が多く、成績次第で延長される

    年俸:助っ人外国人の年俸は、

    日本人選手と比較して高額になりやすい

    オプション契約:成績によって契約更新できる

    「オプション」が含まれる場合もある

    獲得方法:MLB(メジャーリーグ)やマイナーリーグからの獲得

    中南米リーグ(ドミニカ、メキシコなど)でのスカウティング

    NPB内での移籍(他球団の外国人選手を獲得)

    助っ人外国人の歴史

    日本球界における助っ人外国人の歴史について、

    その概要をまとめます。

    – 戦後~1970年代
    NPBが本格的に外国人選手を獲得し始めたのは、

    戦後のプロ野球復興期から。

    1950年代~60年代には、

    ラリー・ドビー(元MLBスター)、

    ドン・ニューカム(元ブルックリン・ドジャース)など、

    大物選手が来日。

    – 1980年代~1990年代
    外国人スラッガーの活躍が顕著になり、

    ランディ・バース(阪神)、

    ウォーレン・クロマティ(巨人)らが大ブレイク。

    90年代にはアレックス・カブレラ(西武)、

    タフィ・ローズ(近鉄)などのホームランバッターが台頭。

    – 2000年代以降
    MLB経験者の大物選手が増加(アレックス・ラミレス、ホセ・フェルナンデスなど)

    日本球界で成功し、長期活躍する外国人選手も増加

    アジア人助っ人(李承燁、陽岱鋼など)もNPBで重要な戦力に

    1.助っ人外国人の役割と影響
    助っ人外国人選手は、以下のような形でチームに貢献しています。

      打撃面の強化:長距離砲としてクリーンアップを任される

      投手陣の補強:エース級の先発やリリーフとして活躍

      日本人選手への影響:外国人のプレースタイルや練習方法が、

      日本人選手にも良い影響を与えるます。

      NPBの国際化:外国人選手の活躍がNPBの人気向上に寄与

      2.近年の傾向と課題
      近年のNPBでは、外国人選手に関する以下のような課題が浮上しています。

        MLB流出問題:日本で活躍した外国人選手が、すぐにMLBへ復帰してしまう

        コロナ禍の影響:入国制限により、新たな助っ人外国人の確保が困難になった時期がある

        スカウティングの多様化:近年はMLBだけでなく、キューバや中南米の若手にも注目が集まる

        日本で大活躍した助っ人外国人5選

        海外からやってきも、数日で消えるのが常識な助っ人外国人の世界。

        その中で輝かしい選手5人についてまとめます。

        1.ランディ・バース(阪神タイガース)

        1983年から1988年まで阪神タイガースでプレー。​

        2年連続三冠王を達成し、

        1985年の打率.389は現在も破られていない記録です。

        自分の親が打たれるたびに、悔しがっていました。

        今回は、選出していませんがクロマティ選手のライバルとしても、

        有名でした。 ​

        2.アレックス・ラミレス(ヤクルトスワローズ、読売ジャイアンツ、横浜DeNAベイスターズ)

        2001年から2013年までNPBでプレー。​
        ベースボールチャンネル | 多角的な視点で発信する野球専門メディア

        外国人選手初の2000本安打を達成し、

        通算2017安打、380本塁打、1272打点を記録しました。 ​

        3.ウラディミール・バレンティン(東京ヤクルトスワローズ、福岡ソフトバンクホークス)

        2011年から2021年までNPBでプレー。​

        2013年にシーズン60本塁打を記録し、

        王貞治氏の持つシーズン最多本塁打記録を更新しました。 ​

        4.アレックス・カブレラ(西武ライオンズ、福岡ソフトバンクホークスなど)

        2001年から2012年までNPBでプレー。​
        ベースボールチャンネル | 多角的な視点で発信する野球専門メディア

        2002年にシーズン55本塁打を記録し、王貞治氏の記録に並びました。 ​

        5.ホセ・ロペス(読売ジャイアンツ、横浜DeNAベイスターズ)

        2013年から2020年までNPBでプレー。​

        日米通算2000安打を達成し、DeNAでは主力選手として活躍しました。

        助っ人外国人の中古相場

        いつものように、ヤフオク直近180日の落札相場を調べてみました。

        “助っ人外国人”で検索しました。

        取引数は247件、平均 998円、最高 30,000円でした。

        最高落札された品物は、

        フィルダーのサインボールです。

        89年のとある試合でサインされた、

        本物の思い出に残る逸品です。

        まとめ

        今回の事故は本当に悲劇でした。

        野球をそこまで詳しくない自分でも、

        ブランコの名前は知っているくらい、

        大人気な選手でした。

        彼の冥福を祈りつつ、今後も助っ人外国人の活躍を、

        期待したいと思います。

        当社ではブランコさんを始め、

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