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昨日11時ごろ、仕事で調べ物をしようとしてスマホを開いたら、まさかの訃報。その後は、ずっと体に力がいまいち入りません。今回は、巨星鳥山明先生について、色々とまとめてみました。
鳥山明先生の略歴
鳥山先生の、生まれからの略歴についてまとめました
[漫画家になる前]鳥山明先生は、1955年に生まれました。学生時代から、当たり前ですが絵は非常に得意でした。しかし、途中から映画やドラマに夢中になり、漫画自体に触れる機会が減りました。それでも、やはり絵の腕に自信があるので高校は愛知県立起工業高等学校デザイン科に進学しました。マンガ研究同好会に入部して会長になるくらいでしたが、まだ漫画を書く気は起きなかったようです。
高校卒業後、1974から”第一紙行名古屋支店”にデザイナーとして入社しましたが、会社で働くことに馴染めず、77年に退社しました。
[漫画家になるきっかけ]退職後は、アルバイトで食いつなぐも、当時はお金に困っていました。
転機となったのは、当時偶然手に取った週刊少年マガジン。新人賞で50万もらえるということで、渡りに船として、色々な雑誌に、漫画を書いて送りました。ジャンプもそのうちの一つでした。当時の編集者鳥嶋和彦さん(アラレちゃんのマシリトのモデル)が、その非凡な才能に気が付きジャンプでの専属契約が決まりました。結果、1978年週刊少年ジャンプにて、”ワンダーアイランド”でデビューしました。
しかし、まだまだレベルが低いので、鳥嶋さんのもとで猛特訓は続き、年間500ページのボツを出したようです。その結果が、今後に繋がります。
[初ヒットアラレちゃん]デビュー後、人気投票は常に打ち切りラインと、鳴かず飛ばずでした。そこで1980年に描いた、”Dr.スランプアラレちゃん”がまさかのキャリア初の大ヒット。ちなみに、アニメも放映され大人気でした。しかし、4年間でアイデアの枯渇を感じて、やめたいと編集に直談判するも、編集から3ヶ月後に新連載を始める条件をのみ、2本の読み切りをはさみつつ、無事1984年に連載が終わりました。
ドラゴンボール登場そしてドラゴンボール後の作品
[ついにドラゴンボール]そして、1984年11月にあのドラゴンボールを、連載開始しました。主人公の名前が孫悟空なので、当初は西遊記のパロディとして書かれていました。しかし当初は人気が地に落ち、打ち切りラインに。しかし、”天下一武道会”優勝を目指す、通称”バトル漫画路線”として方向転換した結果、人気に火が付きました。
本人としては、子供時代の天下一武道会優勝で、連載終了しようとしていました。しかし、ジャンプ編集に引き伸ばしを打診され、急遽青年編が始まりました。その後も、サイヤ人編、人造人間編、魔人ブウ編など数多くの魅力的なキャラクターを生み出し、1995年に連載が終了しました。
もちろんアニメ化され大人気で、初期ドラゴンボールからサイヤ人編(Z)や魔人ブウ後(GT)など平均視聴率20%超えと、驚異の数字を叩き出しまさに存在自体が社会現象。単発映画もたくさん作られ、特に凶暴な伝説のサイヤ人”ブロリー”のお話は、20年以上前のキャラでしたが、突如続編が作られ驚かれました。
[ドラゴンボール以降]ドラゴンボール連載終了後も、たまに週刊少年ジャンプやVジャンプで短編を手掛けました。特に1997年48号から1998年15号まで連載したCOWA!は、先生一番のお気に入りだったようです。
ドラゴンボールの海外での評価
ドラゴンボールはコミックはもちろん、アニメ版も海外で大人気でした。特にアメリカでは、吹替版のアニメが広がるきっかけとして、ドラゴンボールが貢献しました。また、フランスなど多くの国で布教され、まさにドラゴンボールは世界語となっています。
そのせいか、2009年に”ドラゴンボール・エボリューション”という、今で言う特級呪物が登場してしまいました。この作品をみた鳥山明先生でさえ、その感想に苦慮して新たなドラゴンボールとしてそっとして置かれることとなりました。😂
イラストレーター鳥山明
ちなみに、漫画家として忙しく活動している、1986年。エニックスのプロデューサー堀井雄二さんから、突如ドラクエデザイナーとして指名されました。その後ドラゴンクエストは、1-11まで30年以上続く作品キャラクタすべてを手掛けています。
ちなみに、主人公の格好はかなり実用重視で開発と議論を重ねても、引き下がらなくて困ったエピソードが、テレビ番組で語られていました。
ドラクエ以外では、クロノトリガー、トバル、ブルードラゴンなど数年に一度の割合で、ゲームの原作を受けていました。
一部ドラゴンボールの連載と被っていたので、かなりきつかったと思います。少なくとも、大きな作画の低下は感じていなかったので、本当に超人だなと思います。
ドラゴンボールや、アラレちゃん。時代を作った時の思い出
個々からは、自分のドラゴンボールやアラレちゃんの思い出を少し。
[ファーストコンタクトはアニメから]実はまともにジャンプを読み始めたのは、80年代後半。
なので、Dr.スランプアラレちゃんは、テレビアニメ版でハマりました。則巻千兵衛が食べる、味噌汁ラーメンが美味しそうで、カップ麺であるのかと本気で探していた時期がありました。キャラだけではなく、メカや食べ物など小物を大切にかける漫画家は少なく、ここがうまい人は今でも好きです。
[ドラゴンボールという時代]当時はキン肉マンがお気に入りで、ドラゴンボールはあまり読んでいませんでした。はっきり記憶に残るのは、確か桃白白編くらいからです。個人的には、好きなキャラクターは、ピッコロ大魔王です。最初は、かなりの強敵でしたが、激闘をくぐり抜け、ベジータと一緒に、最後まで頼れる相棒であったと思います。そこから続くサイヤ人編は、一番のお気に入りです。
しかし、唐突に終わらせようとして、ちょっとだけ続くんじゃの流れに、(サイヤ人編?)本気で泣きそうになったこともあります。
ストーリーとしては、あのレッドリボン軍編から続けた、人造人間編はサスペンス調で好きでした。個人的には、ここで終わらせてもいいかなと思いました。
魔人ブウ編では、流石にネタ切れを感じました。しかし、最終回”バイバイドラゴンワールド(でしたっけ?)”を読み終えたときは、夏休み最終日の夕暮れのような切ない気持ちになりました。
ドラゴンボール以降や以外の隠れた作品
実は、ドラゴンボールなど大作の合間に、短期連載を何度も挟んでいました。主な作品をまとめてみます。
GO! GO! ACKMAN:Vジャンプにて、1993年の7月号から1994年の10月まで不定期連載されました。いい意味でドラゴンボールとドラクエを足したような、隠れた名作です。ゲームもスーパーファミコンで、3まで作られ、プレミアがついています。
COWA!:ドラゴンボール後売上が激減した、ジャンプのマシリトから泣きつかれ、1997年48号から1998年15号まで連載されました。おばけの少年パイフーが主人公で、おばけと人間と一緒に住んでいる小さな町で起こるトラブルを優しく描いています。先生が一番大好きな作品だったようです。
SAND LAND:2000年23号 – 36・37合併号まで。砂漠の世界で、戦車乗りの老戦士が伝説の悪魔と呼ばれる悪に憧れる少年悪魔と、水を求めて戦います。2023年夏にアニメ映画化されました。
この他、ジャンプを中心に多数の短編を残しています。一部を除き、『鳥山明○作劇場』に収録されています。
鳥山明先生にまつわるお宝
いつものように、ヤフオク直近180日の落札相場を調べてみました。
“鳥山明”で調べてみました。取引数は6,687件、平均 8,205円、最高 1,026,000円でした。最高落札された品物は、ドラゴンボールの原画です。おそらく今年はバク上がり間違いなしです。
名漫画家にまつわるお宝の調べ方
有名漫画家のお宝と考えて、思いつくのはコミックスだと思います。しかし、個人的にはあまりおすすめできません。理由は、配送時のコストがかかるからです。20巻くらいの少年誌なら、工夫次第でレターパックプラスに入りますが、やっぱり本が傷んでしまいます。
さらに、これが30巻を超えるとすでに重さは5キロ以上となり、サイズも100サイズと大型化しますので、工夫が必要です。
この他、アニメや映画化されている場合のグッズもたくさんあるので、少し大変。やっぱり時間をかけて、色々なものを集めて、〇〇先生まとめ売りなどのほうが、無難かつ夢はあります。みなさんも、コレクションを大切にして、困った時の懐刀として、大切にのこしましょう。
まとめ
鳥山先生の漫画の主人公は、みんな前向きで努力の天才。自分も、悟空たちのように、仕事や人生において修行の日々を過ごしています。
当社では、鳥山先生にまつわる品物の出張買取をしています。気軽にお電話、メール公式ラインアカウントにて問い合わせてください。
最後に、漫画の枠を超えた作品をたくさん残した鳥山先生のご冥福をお祈りします。