球界の特大巨星墜つ。長嶋茂雄さんにまつわる色々を深堀り。もちろん彼が残した、品物たちの中古相場についても深堀りします。

川崎市宮前区で、

不用品買取や大人の断捨離を支援するアニー堂です。

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鷺沼駅行バスで10分、

東横線武蔵小杉駅から

野川台公園行バスで20分

上野川のバス停付近で、

個人の古物商として活動しています。

昨日ですが、あの日本球界最大の功労者、

長嶋茂雄さんが亡くなりました。

今回は、彼の生涯と日本球界に与えた影響、

そしていつものように、

長嶋茂雄さんにまつわるお宝の

中古相場についても深堀りします。

長嶋茂雄さん大往生

先日朝Yahooニュースで、

あの長嶋茂雄さんがなくなったという

速報が流れ、自分走りました。

その日新聞やテレビも、

訃報をつたえ一日喪に服しているような状態。

彼は、所属していた読売ジャイアンツの声明によると、

肺炎のため東京都内の病院で死去しました。

享年89歳大往生でした。

長嶋茂雄さんの野球人生

かれの現役のバットマンとしての、

野球人生を振り返ります。

– 中学時代

彼が野球を本格的に始めたのが、中学時代から。

その頃は本当に一人の野球小僧として、

野球に楽しく向き合っていました。

当時の監督からは夢はプロ野球選手という、

話を聞き説教を受けるなど、

本当に普通の子だったと思います。

– 高校時代

高校は、地元の名門千葉県立佐倉第一高等学校(現・千葉県立佐倉高等学校)に、

進学しました。

目立った成績といえば、

高校最後の夏銚子高校に惜しくも敗れるも、

南関東大会に出場することができました。

ここで、自身の野球人生を変える、

特大のホームランを放ったことから、

かれの人生が野球に染まりました。

– 大学時代

かれは監督のすすめもあり、

立教大学に進学し東京六大学野球で活躍しました。

しかし、最初の2年間は監督の軍隊のような、

厳しい練習の日々に大苦戦。

1955年には一度は寮を脱走するほど、

きつかったようです。

しかし、そこで思いとどまり、

大学4年生の時には春秋連覇を達成し、

1957年には、六大学野球での、

通算8本塁打という、

当時の記録を樹立しました。

彼は「神宮の星」と称され、

その実力と華やかなプレースタイルで、

注目を集めました。

– プロ野球時代

プロ野球では南海ホークスから声が掛かるも、

親のせめて在京の球団でという一言で、

入団の説得に来ていた1958年、

読売ジャイアンツに入団した長嶋さん。

その年の新人王を獲得し、

以後も本塁打王や打点王など数々のタイトルを獲得しました。

全盛期には巨人のV9にも貢献するなど、

日本球界最高のバットマンとして、

戦い続けました。

しかし、1970年年代に入ると、

徐々に体力の衰えが見られるようになり、

1974年巨人のV10の夢が絶たれた時に、

彼の気持ちは引退に傾きました。

1974年10月14日。

あの「我が巨人軍は永久に不滅です」の名言を残して引退。

通算成績は、

2186試合出場、2471安打、444本塁打、1522打点、打率.305という、

輝かしいものでした。

長嶋茂雄さんの引退後の生活

引退から間をおかず、

1975年から巨人の監督として、

手腕を振るうようになりました。

– 第一次監督時代

しかし、1975年は屈辱の最下位に沈みました。

本人を始めとした戦力が、

ごっそりと抜けたのが要因ですが、

急激に組織を作り変えた弊害が出ました。

しかし、その後は組織改革はもちろん、

トレーニングに至るまで長嶋イズムが

浸透した巨人は生まれ変わったかのように、

勝ち続けました。

しかし、1979年川上哲治選手との間に、

とある采配をきっかけに軋轢が生まれ、

巨人はそのまま大混乱に。

その責任を取る化のように、

1980年には、監督を引退しました。

その後は、10年ほど指導からは距離を起き、

どちらかというと野球の普及に貢献していました。

– 第二期監督メークドラマ

転機が訪れたのが、1990年。

引退のきっかけを作った、

川上哲治と和解したことにより、

1992年再び巨人軍のユニフォームを、

着ることになりました。

93年は3位とイマイチな成績でしたが、

1994年にはあの中日との完全決着を迎えた、

10.8決戦を制し、そのまま日本シリーズでも西武との接戦を制し、

日本一に。

1995年は惜しくも連続優勝を逃すも、

1996年には一時は首位広島に11.5ゲームという大差をつけられるも、

終盤で一気に巻き返し逆転優勝をもぎ取りました。

世にいうこれを、「メークドラマ」として今でも語り継がれる、

伝説の優勝を遂げました。

その後も指導を続けましたが、

2001年に引退。

終身名誉監督として、

3番のユニフォームとともに、

巨人軍に永遠に刻まれることとなりました。

リーグ優勝5回、日本一2回を達成しました。

長嶋茂雄さんが日本球界に与えた影響

監督の活躍は野球界にとどまりませんでした。

特にスポーツ選手としては異例な、

文化勲章受賞が物語っています。

もちろん、その高いプロ意識や当時最先端の練習方法などの

直感的な長嶋流指導は、

松井秀喜など後輩たちに、

太陽のようにさんさんと降り注ぎ、

日本球界のレベルアップに貢献しました。

さらに、2004年に野球が念願のオリンピック種目になりました。

監督就任を打診され、

一時は受けるも脳梗塞で倒れたため、

監督として指揮を取れませんでした。

しかし、3位入賞という成績を収め、

日本球界のレベルの高さを、

改めて示すことはできました。

ちなみにこのときは、プロアマ混成チームという、

日本球界でも、歴史的なチームとなりました。

しかし彼の一番のすごいところは、

積極的に野球の種をまいたことです。

脳梗塞で不自由な体をおして、

ファンとの交流を大切にしていました。

その結果、今となっては大谷翔平をはじめとした、

日本人メジャーリーガーが、

当たり前にいる世界の実現につなげたことだと思います。

長嶋茂雄にまつわる中古相場

いつものように、ヤフオク直近180日の落札相場を調べてみました。

“長嶋茂雄”で検索しました。

取引数は2,986件、平均 6,921円、最高 901,000円でした。

最高落札された品物は、昭和に作られた野球面子。

こういったものは、今後もお宝として永遠に語り継がれると

思います。

まとめ

個人的には監督としての長嶋茂雄さんのイメージが強く、

選手としてはあまり知りませんでした。

しかし、あらためてまとめてみると日本球界の今を

作り上げた最大の立役者と言って過言ではないと思います。

今後も、彼が育てた子どもたちが世界で活躍を続けることを、

期待します。

当社では、長嶋茂雄にまつわる品物について、

出張買取、オークション代行します。

気軽にお申し付けください。

最後に、監督おやすみなさい。まずは、ゆっくりしてください。