染付に紀三井寺。五島美術館にて、古染付と祥瑞の展覧会で出会った、日本と中国の奥深い陶芸の世界について深堀りします。もちろんお宝の相場もまとめます。

川崎市宮前区で、

不用品買取や大人の断捨離を支援するアニー堂です。

田園都市線梶が谷駅から、

鷺沼駅行バスで10分、

東横線武蔵小杉駅から

野川台公園行バスで20分

上野川のバス停付近で、

個人の古物商として活動しています。

昨日久しぶりに、

五島美術館に足を運びました。

古染付という中国景徳鎮発祥の焼き物なのに、

何故か”紀三井寺”という馴染み深い名称が。

今回は、日本の陶器に多大な影響を与えた、

景徳鎮の古染付などについて、

歴史や魅力などを深堀りします。

五島美術館で行われていた古染付と祥瑞について

最近ノリタケなど洋食器に混じり、

九谷焼など高級な日本の陶器を扱うことがありました。

その経験から、古い焼き物について勉強する必要を感じて

足を運びました。

今回開催されていた”古染付と祥瑞”というテーマは、

まさに渡りに船でした。

1400円を払い久しぶりに、

静かな美術館で、

数多くの貴重な品々に、

出会うことができました。

[概要]

「古染付」「祥瑞」(ショウズイ)は、

17 世紀前半に中国・景徳鎮の民窯で焼かれ、

日本に輸入された染付(青花)磁器です

本展では、その優品をあらためて紹介するものです。

「古染付」は、”落ち着いた、やや鈍い青色(酸化コバルトの青料)”を用い、

余白を残しながら自由に描かれた文様が特徴。

形も、日本で好まれた様々な器物を模した特徴的なものがある。

一方「祥瑞」は、鮮やかで深い青色による、

非常に細かく精緻な文様が器面全体を覆う華やかなスタイルが特徴です。

全体を吉祥文様などで埋め尽くすような、豪華な装飾が多い印象。

どちらも本来は茶の湯用の器(茶陶)として作られ、

日本の茶道文化の中で高く評価され、

17 世紀から現在まで長く愛され続けてきた。

この展覧会では、

「古染付の静けさ」

「祥瑞の華やかさ」を

同時に味わえる贅沢な展覧会でした。

主な出品例 — 代表的な作品たち

以下は、展覧会で実際に展示された代表的な作品や、

特に注目されていたものをまとめました。

1.古染付高砂手花生(明時代 17世紀前半/所蔵:北村美術館)

https://www.gotoh-museum.or.jp/wp-content/uploads/2025/08/event_2025_1028.png?20250829=

古染付の代表作の一つ。

落ち着いた青で、

器形や文様に和の「茶陶」としての風格と静けさが感じられます。

こうした作品を見ると、

「器としての実用性」と

「芸術としての美しさ」が両立できることを感じさせる品物です。

2.古染付猿図桃形向付(明時代 17世紀前半/所蔵:石洞美術館)

「猿」の絵が描かれたユニークな染付。

絵付けは自由で、余白を活かした構図。

古染付の「遊び心」や当時の感性が感じられる作品です。

もともと向付(向付け)は、

食器としての用途を意識して作られているので、

実用性を兼ねつつ、絵付けの味わいが楽しめます。

3.祥瑞砂金袋形水指(明時代 17世紀前半/所蔵:泉屋博古館東京)

祥瑞の典型。

器面いっぱいに青の絵付けが施され、華やかな吉祥文様。

古染付とは対照的な

「装飾性の高さ」

「視覚の華やかさ」が際立ちます。

茶の湯の水差(みずさし)としての用途

つまり、「茶道具」として作られていた器。

実用と美の融合の象徴とも言えます。

そこで出会った古染付の紀三井寺と和歌山の紀三井寺の違い

色々な貴重な品物をたくさん見て、

特に気になったのが、

先程書いた”紀三井寺”という、

名称を持つ陶器です。

なぜ気になったかというと、

なじみの土地に、同じ名前の駅があるからです。

そこで、この”紀三井寺”と、今回見た”陶器の紀三井寺”について

チャッピー先生に聞いてみました。

まず、「紀三井寺(和歌山の寺院)」について

紀三井寺は、和歌山市にある古刹で、

正式には「金剛宝寺護国院」という名。

西国三十三所の第2番札所。

この寺の名は、境内に湧く

「三つの霊泉(水)」(清浄水、楊柳水、吉祥水)に由来する。

風光明媚で、桜の名所としても知られ、

多くの参拝者や観光客が訪れます。

――つまり、「紀三井寺」は仏教寺院/霊場としての実在の場所・お寺です。

一方、「紀三井寺(染付)」とは — こちらはやきものの呼称・様式

染付(そめつけ/青花/釉裏青)は、

白い胎土にコバルト系の顔料(呉須など)で絵付けし、

透明釉をかけて焼いた磁器。

中国で発展し、日本にも輸入された陶磁器様式。

「古染付」のなかでも、

特に自由な絵付けやその時代ならではの味わいをもつ器がある。

「紀三井寺(染付)」とは、こうした染付のうち、

伝統的に“優品”として評価されてきたものの呼び名。

具体的には、人物絵などを含む

「雲堂(うんどう)手」と呼ばれるもののうち、

質の良い茶碗などが「紀三井寺」と呼ばれ、

茶道具として重んじられてきた。

また、研究・評論の文脈では、

「口縁がわずかに開く(口が広がる)」

「胴や腰に鉄釉の凸帯がある」

「胴紐の手(くびれのある胴)」

「鉄釉が施されている」など、

ある種の形状や仕様を持つ染付を「紀三井寺」と呼ぶことがある、

という指摘もあります。

――つまり、「紀三井寺(染付)」は、実際のお寺・紀三井寺とは

無関係な「名前としての様式名」です。

❓では、なぜ「紀三井寺」という名前が磁器に使われたのか — 名前の由来・背景

この点がやや曖昧かつ複数説があって、

はっきり「寺と関係がある」と断言できる情報は、

学界でも少ないようです。

以下のような事情があります:

そもそも、「雲堂手」のなかで特に優れた染付茶碗が

「紀三井寺」

と呼ばれるようになった、

という記録が古くからある。

ただし、その「紀三井寺」の名付けの根拠として、

ある資料(たとえば『茶器名物図彙』など)では、

「器に描かれた人物絵が観音に似ていたので、

観音霊場である紀三井寺にちなんで名付けた」

という説を挙げている、との言及もある。

一方で、「紀三井寺(寺院)」と「紀三井寺(染付)」が、

地理的/物理的に結びついたという史料は、

今のところ確認されておらず、

「染付で紀三井寺と呼ばれるものが、紀三井寺で使われていた」

「紀三井寺に由来する轍(わだち)で焼かれた」

という話も確認できていない。

要するに、「紀三井寺(染付)」という名称は、

お寺・紀三井寺とは直接の関係性というより、

あくまで「名前として引用された」可能性が高い —

ただし誰がいつ・なぜその名前をつけたかについては、

複数の説があり、学問的に定説があるわけではない、

というのが現在の理解です。

🔎 どんな品物に「紀三井寺」の名が使われるか

「紀三井寺」と呼ばれてきた染付の器には、

主に以下のような特徴や種類があります:

茶碗:人物絵(人物文様)が描かれたもの —

これが「雲堂手紀三井寺」と称され、特に尊重されてきた。

典型的な茶道具として、

旧来「香炉」がもともとその用途だった器を、

転用して茶碗として用いたもの。

これは時代背景(中国 → 日本への輸入、茶の湯文化の受容など)と関係する。

形が特定:「口縁がわずかに開いている」

「胴にくびれを持つ」

「胴あるいは腰に鉄釉の凸帯がある」など、

染付としては特徴的な仕様を持つもの。

こうした仕様の器が、

「紀三井寺」として認識されることがある。

なお、この「紀三井寺(染付)」という呼称は、

あくまで“茶道具や古染付の世界の慣用語”の一つ、であって、

現代の磁器産地の名称ではありません。

古染付を作った景徳鎮と作った目的

この展覧会で、17世紀ごろの日本人顧客から

景徳鎮の窯元が注文を受け焼き上げたのが、

古染付と呼ばれる焼き物たちです。

しかし、すべてがオーダーメイドではなく

一般的な焼き物として長崎の出島を経由して

入ってきました。

その何割が長崎で消費されますが、

残りが日本中に広まり一般的に使われてきました。

展覧会にも東大の敷地内では、

食器やお茶道の欠片などが数多く出土し、

当時の古染付は一般人でも、

使っていたと思われます。

しかも、景徳鎮独自の柄や絵付けを、

日本人好みに変える技術と遊び心に、

驚いたと思います。

もちろんこの技法は、

日本各地の窯元の目に止まり、

茶の湯の発展とともに、

一気に日本の陶器文化が花開くこととなりました。

古染付が日本の陶器に与えた影響

中国の景徳鎮磁器 → 日本の陶器発展への影響

https://www.travel-zentech.jp/world/map/china/Jiangxi_province/image/Map_of_Jingdezhen_in_Jiangxi.png

✅ 背景 — 景徳鎮と「青花/染付」の伝来

景徳鎮は、宋代以降、中国で最も重要な磁器産地となり、

陶石(カオリンなど良質な磁土)や釉薬原料、

木材資源、運搬の水路など、磁器生産に適した条件が揃っていたという。

元〜明〜清を通じて、景徳鎮は官窯(宮廷向け)だけでなく、

多数の民窯(私窯)も抱え、

輸出用・民間用・国内用など多様な磁器を生産していた。

17世紀前半、中国側では宮廷向け官窯の衰退や政情不安などがあり、

その間に「輸出向け・私窯製」の磁器、

特に「青花(呉須による染付)」が活発に作られ、

日本など外国市場に向けて供給された ―

これが、いわゆる古染付(あるいは 天啓磁器/Tianqi porcelain)です。

🎯 有田焼(および江戸〜近世日本磁器)の成立と発展における景徳鎮の影響

日本で磁器がはじめて本格的に焼かれたのは、

17世紀初頭、九州・肥前(現在の佐賀県有田町あたり)でのこと。

これは、朝鮮から渡来した陶工(あるいは技術)と、

中国景徳鎮由来の

「陶石(磁土)」

「釉薬」

「製陶技術」の影響を組み合わせた試みだったとされる。

初期の有田焼(およびその後の輸出用磁器)は、

景徳鎮の「染付(青花)スタイル」を模倣・参照しつつ、

形や用途を日本・ヨーロッパの需要に合わせて展開された。

つまり、景徳鎮の技術とデザインが「雛形」となり、

それをベースに日本側で独自の発展が始まった、ということ。

また、17世紀中頃から後半にかけて、

中国からの輸出が不安定になると、

ヨーロッパに向けた磁器の供給を、

日本産磁器(有田焼/伊万里焼)が担うようになり、

これが日本における磁器産業の本格的な発展・隆盛につながった。

さらに、有田焼を基盤として、

色絵・上絵(下絵青花だけでなく、上から赤や緑、金などで彩色する技法)の発展

→ 多彩な磁器様式(たとえば柿右衛門様式、鍋島焼、古九谷など)の誕生へとつながり、

日本の磁器文化の多様性を生んだ。

要するに、景徳鎮の染付磁器が「技術・デザインのモデル」として日本に輸入され、

それを基に日本側で磁器作りの芽が育ち、

日本独自の磁器文化が花開いた――そう言ってよいでしょう。

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現代社会で古染付に出会えるのか?

今回出会えた品物は個人収集もありますが、

歴代の徳川家など持ち主は大物ばかり。

しかも、当時の色合いや技法の中は、

完全再現不可能と思われます。

そんな中でも一般的な市場で手に取ることは可能かと、

検証してみました。

「古染付」は、

中国・景徳鎮窯で17世紀前半(例えば天啓期あたり)に焼かれ、

日本に輸入された染付磁器の一群です。

輸入されて古いものは400年近く経過しているので、

おそらく大半は消失したと思われます。

しかし、いまでもたまに古民家の蔵などから、

出てくることがあるのかオークションサイトや

ハイソな骨董市で、

稀に登場することはあるようです。

もし当時物の未発見の品物が出てきたら、

どんなに安くても数億円はすると思います。

そこで注意したいのが、偽物の存在です。

古染付の特徴である、

当時の“民窯”で作られたため、

技術や品質はまちまちで、

大鉢や皿など、“良品”に近いものもあれば、

「釉薬のむら」

「虫喰い(釉の剥がれ)」

「造形の粗さ」など“荒さ”のあるものも多い。

そうした「雑器的」な側面をつかれて、

後世模倣品などが多数作られました。

なので、もし古染付を見つけたとしても

必ず疑って見ることが大切です。

それでも気になるなら、

大手の骨董屋に持ち込み、

鑑定を受けましょう。

オークションサイトで見つけても、

すぐには入札せず、評価などを見て判断する冷静さも必要です。

古染付の中古相場

いつものように、ヤフオク直近180日の落札相場を調べてみました。

“古染付”で検索しました。

取引数は2,055件、最高 607,000円 平均 23,839円でした。

最高落札された品物は、仙人 鬼紋が書かれた陶板です。

画像を見る限り先日見た、

古染付に近い風合いを感じます。

本物のお宝に出会う日は果たしてくるのか?

まとめ

最近国立博物館は、

予約性が多くなかなか気軽に足を運ぶことが

できないので近所に博物館があるのは助かります。

おそらく同業者と思われる人もいたので、

みんな勉強しているのだなと感じ自分も負けないぞ!という

心意気で名に焼き付けました。

当社では古染付はもちろん、陶器についても

出張買取、オークション代行します。

お気軽にお申し付けください。