イチバーン!!あのハルク・ホーガンが急逝。日本と関係が深い彼の生涯と

川崎市宮前区で、

不用品買取や大人の断捨離を支援するアニー堂です。

田園都市線梶が谷駅から、

鷺沼駅行バスで10分、

東横線武蔵小杉駅から野川台公園行バスで20分

上野川のバス停付近で、

個人の古物商として活動しています。

あのハルク・ホーガンさんが亡くなったというニュースが、

プロレスファンに衝撃を与えました。

今回はあのハルク・ホーガンについて、

彼のレスラー人生と日本マット界に与えた影響など、

色々と深堀りします。

ハルク・ホーガン急逝!

今朝スポーツ紙は、

あの偉大なレスラーハルク・ホーガンの急逝の

ニュースでもちきりでした。

彼のマネージャーである、

クリス・ヴォロさんによると、

フロリダ州クリアウォーターの自宅で心停止し、

家族に囲まれながら亡くなった模様です。

彼は、1977年にレスラーになってから

トップレスラーとして、

数十年間世界中のマットで戦い続け、

自分を表現しプロレスのエンタメとしての

次元を引き上げました。

この影響は、日本でもあのアントニオ猪木さんを

伝家の宝刀で一撃でKOした事件をきっかけに

日本マット界に名を知られ、

影響を与えました。

次章では、彼のレスラー人生について、

まとめます。

ハルク・ホーガンのレスラー人生

彼の生涯について、その大半をしめた

レスラー人生についてまとめます。

[出生からレスラーデビューまで]

ハルク・ホーガンは、1953年8月に

ジョージア州オーガスタ生まれ、

フロリダ州タンパ出身。

もともと体が大きく、

プロレス好きでボディビルと音楽活動に打ち込む

普通の学生時代を過ごしました。

音楽活動を通じてプロレスラーとしての、

客を引き付ける能力が開花し、

憧れのNWAビリー・グラハムに弟子入りを求めるも

一度は断られます。

しかし、その熱意を受けNWAのプロモーター

エディ・グラハムの息子経由で、

日本人レスラーヒロマツダの元で

修行を開始します。

かなりきつい稽古を乗り越え、

1977年に覆面レスラーとして、

デビューします。

そして1979年にあのWWF(現WWE)にて、

ベビーフェイス(善玉)としてデビューします。

その後は破竹の勢いで勝ち続け、

1980〜90年代のスーパースターとして活躍。

子どもから大人までを魅了した正義のヒーローとして、

活躍を続けた結果。

あの年一回のアメリカマット界最大の興行

WWFの”レッスルマニア”を彼の名前を文字って、

Hulkamania」という造語が作られるくらい、

大人気レスラーとなりました。

WWF時代では、

複数回の世界王者に輝くなど、

プロレス業界の常識を超えて、

世界的なエンターテインメントに変えた偉大な存在です。

1985年には第1回WrestleManiaでヘッドライナーを務め、

その後も数々の大会を立て続けに主役として牽引しました。

キャッチフレーズ「Whatcha gonna do?」「イチバーン!」など、

言葉とパフォーマンスで観客を熱狂させました 。

[テレビや映画での活躍]

また彼は度々テレビドラマや、リアリティ・ショーはもちろん、

ハリウッド映画に出演し大活躍しました。

個人的には、あの特攻野郎Aチームに出演して

悪党相手に大暴れしていたのは、

ずっと思い出に残っています。

ハルク・ホーガンと日本マット界

彼は80年代から度々黒船として新日本プロレスの興行に襲来し、

日本マット界狭しと大暴れしました。

特に第一回IWGP王者決定トーナメントでは決勝戦で、

伝家の宝刀アックスボンバーが火で、

猪木を舌出しKOさせて、

優勝しました。

また、その後MSGタッグリーグでは、

猪木とパートナーを組み、

1982年・1983年と連覇しました

1990年には東京ドームのWrestling Summitスタン・ハンセンを破り、

日本大会のメインを務めました。

1993年のWrestling Dontakuでは、

グレート・ムタ(IWGP王者)との夢の対決も実現し、

日本の試合スタイルや技術にも敬意を表した動きが見られました。

1996年には後に日本でも蝶野正洋率いて、

社会現象を巻き起こした、

nWoのメンバーという、

悪のカリスマというイメージもあります。

ちなみに、2000年代に入ると自身の立ち位置について

フロントと、揉めることが増え徐々にレスラーとしての

仕事は減りましたが、殿堂入りなどを果たし

プロレス界のレジェンドとして永遠に語り継がれます。

ハルク・ホーガンがプロレスに残したレガシィについて

彼が世界のプロレスに多大な影響を与えたのは、

理解できますが具体的にどのあたりを変えたのかは

よくわからないと思いますので、

改めてまとめてみました。

1.プロレスをエンタメとして確立

ホーガンはリング上での技術だけではなく、

入場、コスチューム、マイクパフォーマンス、

感情表現まですべて使って魅せる、

“プロレスとは見せるもの”という哲学を広めました

海外と日本の架け橋

アメリカと日本の両国でヒーローとなった数少ない選手であり、

外国人選手が日本で成功する道を切り開きました

2.記憶に残るストーリーテリング

昔の少年誌に憧れた子どもたちがホーガンを語り、

ノー!→復活→レッグドロップ形式の分かりやすい構成が、

多くのファンに情熱と期待感を与えました。

後に「Hollywood Hogan」としてNWOでのヒール起用など、

新たなキャラクター変遷も影響を及ぼしました。

今日のプロレス界での影響

WWEやAEWなど大型プロモーションで見られる、

大規模なエンターテインメント型ショーの基礎を築いたのがホーガンです。

日本でも入場演出、キャッチコピー、

IMDb的なドラマ構成など、

現在のスターたちにも受け継がれています。

ハルク・ホーガンにまつわる中古相場

いつものように、ヤフオク直近180日の落札相場を調べてみました。

“ハルク・ホーガン”で検索しました。

取引数は395件、平均 4,534円、最高 91,000円でした。

最高落札された品物は

ハルク・ホーガンのソフビ人形です。

ソフビ人形は永遠のお宝アイテムです。

今後も、永遠に語り継がれるでしょう。

eBayでも調べてみました。

“Hulk Hogan”で検索しました。

Seller数は13,133、Ave(平均)$59.99、max(最高)$28,500でした。

最高落札された品物は、

1981年に発行されたプロレスカード。

もちろん自身のサイン入り。

まさにアメリカらしいお宝です。

まとめ

自分がハルク・ホーガンを実際に認識したのは、

nwoでした。その後テレビやネット、

そして映画で彼の活躍を楽しく見ていました。

なので、今日の急逝のニュースはショックを受けました。

彼のレスラー人生に敬意を払いつつ、

冥福を祈ります。

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