あの悲劇から14年。永遠の英雄、三沢光晴の略歴と彼にまつわるお宝について。

川崎市宮前区で、不用品買取や大人の断捨離を支援するアニー堂です。田園都市線梶が谷駅から、鷺沼駅行バスで10分、東横線武蔵小杉駅から野川台公園行バスで20分上野川のバス停付近で、個人の古物商として活動しています。

今日は、あの伝説のプロレスラー三沢光晴氏の14年目の命日です。故人をしのびその略歴と、彼が残した遺産とも言えるぐっずについてまとめてみました。

三沢光晴栄光の始まり

三沢光晴氏は、1962年に北海道で生まれ、埼玉県で育ちました。幼少期からその恵まれた運動センスから、中学では、機械体操を経をしていました。

その後、テレビで見たプロレスに一目惚れしてレスラーを志すべく、レスリングの名門”足利工業大学附属高等学校”に進学。高校時代でも、全国大会で優勝など輝かしい戦歴を誇りながら、常に心はレスラーになりたい気持ちでいっぱいでした。

ある日、その気持ちが抑えきれず、六本木にあった全日本プロレスの事務所に乗り込み、当時のエースであった”ジャンボ鶴田”に直談判するも、「俺は大学卒業後でレスラーに慣れたから、高校を卒業してからも遅くない」と諭されました。

全日本プロレス時代の三沢

その後、1981年に全日本プロレスの入門テスト受け、無事合格しはれてレスラーの道を歩み始めました。

入門直後から、言われたことを一回で出来る感の良さも発揮し、めきめき頭角を現してました。一時期は、二代目タイガーマスクとしてリングせましと走り回りました。しかし、彼の思うプロレス感とは相容れず、悩む日が多く1990年にマスクをとりました。

その当時は、天龍源一郎選手など選手の大量離脱に苦しんで板敷きです。そこで、彼は小橋建太、川田利明そsて田上明と、きっちり相手の技を受け切る、王道のプロレスを繰り広げました。その結果客足が戻り、彼らのプロレスは四天王プロレスとよばれていました。96年には、全日本の社長に就任するも、”馬場元子夫人”との対立が深まり99年に”ジャイアント馬場”が亡くなるの機に、全日本を退団し、プロレスリング・ノアを立ち上げました。

ノアの盟主として

その後は、2000年に立ち上げたノアのために獅子奮迅の活躍を見せました。最初は、たった3名の選手しかおらず、まともに試合を組めず苦戦を強いられました。しかし、”小橋建太”や”秋山準”などかつての仲間はもちろん、今も活躍している”潮崎豪”など徐々に後輩も増えました。

しかし、体は限界に近かったようです。この頃から、視神経にダメージが及びものが二重に見えたり、首を少しでも動かすと痛みが走るなど、満身創痍。すでに、周囲に体がしんどいとずっと漏らしていました。それでも、立ち上げ時から1日も休まず試合に上がり続けました。そして、あの日の悲劇に繋がりました。

事件の当日と、当事者であった斎藤のその後

事故の前から、練習不足から絶不調で三沢からしてあり得ない細かいミスが多かったようです。

その日は、潮崎豪とのタッグ戦でした。この日も彼が矢面に立って、猛攻を受け続けました。そして、齋藤彰俊選手の放った、何気ない急降下バックドロップの受け身を失敗し、頚椎離断で急逝しました。

この直後から、齋藤彰俊選手は深く悩み引退をかんがえていました。しかし、三沢選手の遺言で思いとどまり再び立ち上がりました。一時はバックドロップは封印していましたが、後に解禁。いまでも現役を続ける、まさに鉄人です。

彼の残したグッズのかちについて

いつものように、ヤフオク直近180日の落札相場を調べてみました。

シンプルに三沢光晴で調べます。

取引数は457件、平均 2,825円、最高 29,800円です。最高落札された品物は、GHCヘビー級ベルトがあしらわれたジッポーです。これぞ珍品とも言える品物です。

まとめ

自分も、プロレスは付かず離れずの関係でしたが、旧道場時代の先輩たちに釣れられ見に行って、ファンになっていました。テレビでもやっていたので、毎週見ていました。あの日は、私は私用で出かけていてその先で訃報を受けました。その後は、ショックで少し力が入らなかったのを覚えています。しかし、彼のプロレスは永遠に残ると思います。当社では、そんな彼を始めとしたプロレスグッズ取り扱っています。出張費無料で対応しますし、車での持ち込みも可能です。お気軽にお申し付けください。